江戸時代、鎌ケ谷市や千葉県北西部には、小金牧(こがねまき)という幕府が馬を育てる牧(=放牧地)があって、たくさんの野馬がいたそうです。

小金牧(小金五牧)

小金五牧小金牧は、上野牧・高田台牧・中野牧・下野牧・印西牧の5つの牧により構成され、小金五牧とも呼ばれていました。現代の鎌ケ谷市と船橋市は、中野牧と下野牧、白井市は中野牧と印西牧にあたります。

 

現在の行政区域における小金五牧の分布

小金五牧(こがねごまき)
1.上野牧(かみのまき):柏市・流山市
2.高田台牧(たかただいまき):野田市・柏市 流山市・柏市 ※
3.中野牧(なかのまき):松戸市・鎌ケ谷市・白井市・船橋市
4.下野牧(しものまき):船橋市・鎌ケ谷市・習志野市・八千代市・千葉市
5.印西牧(いんざいまき):白井市・印西市
※当サイトをご覧いただいている方からご指摘があり訂正しました。ご指摘ありがとうございました。(2021.8.10)

 

野馬土手・捕込・野馬捕り

牧は、二重で堀のある、野馬除土手(のまよけどて)で囲まれ、馬が牧の外に逃げ出したり、農作物を荒らさないようにしていました。
野馬は、年に一度の野馬捕りで、捕込(とっこめ)へ追い込まれ、捕獲・選別されます。

調教しやすい3歳馬は、溜込(ためごめ)に入れ、軍馬として幕府へ送ったり、農民に払い下げられました。2歳馬は、払込(はらいごめ)で焼印を押され、当歳馬や親馬とともに、牧へ返されました。

野馬捕りで、馬を捕込へ追い込む村人たちを勢子人足(せこにんそく)、効率良く追い込むために作られた土手を勢子土手(せこどて)と呼びました。
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国史跡下総小金中野牧(野馬土手)

国史跡下総小金中野牧跡(野馬土手) 鎌ケ谷市初富小学校西側

国史跡下総小金中野牧跡(捕込)

国史跡下総小金中野牧跡(捕込) 鎌ケ谷市東中沢2-377

 

捕込の構造図

中野牧は、捕込、溜込、払込を「品」の字形に配置していたようです。

捕込の構造図

野馬捕りは、勇壮で江戸からも見物人が訪れた大イベントだったそうです 。下野牧と印西牧の捕込は残っていませんが、下野牧は、船橋市咲が丘1丁目、印西牧は、白井市平塚にありました。

 

地名は開墾順だった

江戸幕府の崩壊後、牧は廃止され、小金牧や佐倉牧で開墾がはじまりました。

最初の開墾地を初富(中野牧・鎌ケ谷)と呼び、その後、開墾の順に、二和(下野牧・船橋)、三咲(下野牧・船橋)、豊四季(上野牧・柏)、五香(中野牧・松戸)、六実(中野牧・松戸)、七栄(佐倉牧・富里)、八街(佐倉牧・八街)、九美上(佐倉牧・香取)、十倉(佐倉牧・富里)、十余一(印西牧・白井)、十余二(高田台牧・柏)、十余三(佐倉牧・成田および多古)と名付けられました。

 

相馬野馬追と鎌ケ谷市の意外な関係

相馬野馬追は、伝説では「相馬氏の祖である平将門が下総小金原に野馬を放ち敵と見立ててこれを追ったことに始まる」とされています。
また、相馬藩主のルーツは、鎌倉時代に鎌ケ谷市域北部を含む「相馬御厨(そうまみくりや)」を相続した、下総守護千葉常胤(つねたね)の次男師常(もろつね)が相馬を名乗り、その後本拠地を現在の南相馬市に移したことに始まります。
今年も、鎌ケ谷市民まつりに、相馬野馬追の騎馬武者が来てくれましたが、こんな縁があったのですね。

 ※引用文献:「国史跡下総小金中野牧跡保存管理計画書」(鎌ケ谷市教育委員会) 参考ウェブサイト:鎌ケ谷市、白井市、船橋市

※渡辺新聞店発行の「なっち通信(2013年9月号 )」より転載